世界に絶望して自らの命を投げ出すことを考えるなど不毛だ

 

あなたは自分の命を自ら絶とうと思ったことはあるだろうか。

 

2019年に入りすでに3ヶ月が過ぎたが、2月が終わった時点で日本国内での自殺者は約3,200人いるということを知っているだろうか。

 

1日に約50人もの人が自ら命を絶っている。

 

実際には行動を起こしていないが、絶望を抱えて自らの命を絶とうとしている人は僕らが認識できないだけで実は身の回りにも一定数いるのだろう。

 

かつては僕もその中の一人だった。

 

自らの命を絶つことを考えていたというと大げさだが、確かに「自ら命を終わらせることができたらこの苦しみからも解放されるだろうか」といった死を享受するような感情を抱いていたことがあった。

 

その当時、貯金ゼロで所持金も財布に入った25円で、仕事は週に数回アルバイトをしていたが給料が振り込まれるのは1ヶ月も先。それでも月末には家賃や先月の自分が使ったクレジットカードの支払いがやってくる。

 

外に遊びにいくお金もなければ、家に招くような友達も近くにはいなかったから家に引きこもりながら支払うことができないお金の請求がくることに恐怖を抱いていた。怖いお兄さんがくるわけでもないのに。

 

そんな日々はしんどくて、経済的余裕と精神的余裕が比例することを実感するとともに「命を絶ってこの途方もなくしんどい状況から解放されたい」と考えることがあった。

 

結局、その後親に相談をして支援してもらってそのいいしれぬ不安からはいとも簡単に解放された。

 

今思えば何でそんなことで。と思うが、人が自分の人生に絶望する理由のほとんどが他人が思う「そんなこと」なんじゃないだろうか。

 

「いじめくらいで」「誹謗中傷くらいで」「借金くらいで」

 

当事者でなければ、ましてやいじめてる側、批難を浴びせる側の人間には到底分かり得ないのだ。

 

100%理解できる人なんてなかなかいない。だから絶望し尽くしている人を助けるなんてそう簡単にはいかないのだろう。

 

それを分かった多くの人はみな口を揃えて「命を捨てる勇気があるのなら何だってできるだろ」という。

 

僕もそう考えていた。

 

だが、それは違った。

 

僕が大好きな三秋縋先生の「いたいのいたいの、とんでいけ」という小説にこんなことが書かれていた。

 

「自殺する勇気があるならそれを他に使えばいい」など、見当違いもいいところだ。自殺に必要なのは勇気ではない。ちょっとした絶望と、束の間の錯乱だ。ほんの一秒か二秒の錯乱で、自殺は成立してしまう。大体、人は死ぬ勇気があるから自殺するのではない。生きていく勇気がないから自殺するのだ。

 

なるほどそうかと思った。

 

腑に落ちすぎて、後日友人にこの考えに至る三秋先生の素晴らしさを交えて興奮気味に話した。

 

すると友人も死を考えたとがあると言っていた。

 

その理由は何と言っていたのかは忘れたが、いつも明るく友達が尋常じゃなく多い友人がそんなことを言ったことに驚いたことを覚えている。

 

話が逸れたが、何が言いたいのかというと、自分で命を投げ出そうという人にかけられる言葉などほとんど存在しないのだろうということだ。

 

僕は仏でもなければ偽善者にもなれないようなただの人なので、知人でもない赤の他人に「自分の命を大切にして、力強く生きてください」なんて言えないし、そんなことを言いたいのではない。

 

そもそも言いたいことなんてない。

 

ただ「そんな絶望している時間があったら何でもできるぞ、そんな難しく考えずに楽にいこう」とは思う。

 

23年間生きてるけど中身はこの道30年の板前さんが切ったふぐ刺しのように薄い僕がやっていけるような世の中なんだから、太陽の下を歩いてれば元気になると思う。(適当)

 

死なんて黒い服着て大きな鎌持った誰かさんがいつか運んでくるんだからさ、世界に絶望している暇があったらYouTubeでも見てゲラゲラ笑っていた方がいいんじゃないだろうか。

 

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